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Do it Magazine年末年始はある程度時間の余裕が出たので、忙しくて、行けなかった映画や展覧会や、読めなかった本を順調に消化していた岩渕です。
今回はその中で観た『ロボット・ドリームズ』について書こうかなと思う。
本作は、パブロ・ベルヘルというスペインの映画監督が手掛けた、初のアニメーション映画。「ドッグ」と「ロボット」、犬とロボットによる友情を描いた映画だ。
特色というと、セリフが一つもなく、効果音やBGMを除けば一切の発語がないこと。多少、看板の英語などに字幕はついているものの、どんな言語圏の人でも楽しめる映画になっている。
どちらかと言うと、言葉が織りなす会話劇のような映画を好むのが私の趣味で、『ロボット・ドリームズ』はむしろ普段観ないような映画であるのにも関わらず、とても面白く貴重な体験だった。一言も発さない登場人物の、些細な表情や、動きにより、その感情の機微が伝わってしまう。(ニューヨークに独りぼっちで暮らすドッグが、恐らくどこかで買ってきたのであろう飲み物を飲もうとするも、どうやってもストローがそっぽを向いてしまう、そのワンシーンだけでドッグの寂しさが透けてみえる演出、痺れてしまった!)
そしてこれは、言葉を愛しすぎる現代社会への(私への)処方箋のようにも受け取れた。
ひょんなことから誰もいない浜辺に一人きりになってしまったロボットが、友人であるドッグのことを回想すること、その間に観る夢が映画の大部分を占めているのだが、ロボットが観る夢というと、かの有名な『ブレードランナー』の原作となったフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を思い出さずにはいられない。火星から逃亡してきたアンドロイドを「処分」することで、生計を立てる賞金稼ぎであるリック・デッカードは、何体ものアンドロイドを「処分」していく過程において、人間とアンドロイドの違いとは何かという問いに直面する。そもそもアンドロイドは夢を見るのか?デッカードが抱いた疑問の一つが、そのまま本のタイトルになっている。
『ロボット・ドリームズ』において、ロボットはそもそも夢を見るのかなどと言う問いは立てられない。あまり美味しそうではない冷凍食品のようなものを、レンジで温め、一人でテレビの前で食べるドッグには、見る限り恋人も友人もいない。そんなドッグが、「友達ロボット」のCMを観てロボットを購入するところから、映画はスタートする。AIに尋ねれば、明日の天気はおろか、知らなかったニュースや、調子のいい冗談まで聞ける現代からすると、孤独の救済のための「友達ロボット」という設定はすんなり受け入れられる。
そんなロボットを街に連れて行き、それまで一人では味わえなかったような楽しい日々(公園を散歩しながらEarth, Wind & Fireの「September」が流れるシーンがとてもいい!)を送るドッグが、ある日海に行ってから事態は急変する。
そんなことすぐに気づけよ!と言うツッコミは置いて、海水が体内に入ってしまったロボットは身動きが取れなくなり、そのあまりの重さに連れて帰る事を諦めたドッグ。更に不運なことに、ロボットの残されたビーチはその次の日から閉園してしまい、立ち入り禁止になってしまう。そこからカメラは、ビーチに動けないまま残されたロボットと、再び一人で生活することとなったドッグの生活の間を彷徨う。それぞれがそれぞれの生活の中、お互いのことを想像しながら、淡々と過ぎていく一年が描かれる…。
そんな中、ロボットが観る夢というのは、荒唐無稽で、時にシュルレアリスムのようで、その全てがドッグにもし再び会うことができたら…という願いに包まれている。再び動けるようになった体で、ドッグの住むマンションに辿り着くが、その寸前で眼が覚める。目を開けると、動けない体といつもと同じ海岸が呆然と広がっている。
私自身、今もう会えなくなった人と再会する夢をよく観る。夢というのはいつだって、あらゆる論理が通用せず、あやふやで、だからこそ夢から覚めた寝室の妙なリアリティに残酷さを覚えることは往々にしてある。完全に破綻した設定の中で、それに対して誰もツッコミをいれないその場は何故か心地が良く、いつまでも醒めないで欲しい夢というのはある。
反面、頼むから醒めて欲しい夢というのもある。私自身よく見る夢のパターンというのを記述してみたい。映画を観てふと思い出した無駄話ではあるが、そもそも、ここはそういうことを話していい場だと聞いている。
一番よく見るのは中学の野球部の時の夢だ。全くと言って野球のセンスというものが皆無だった私にとって、中学3年間の野球部の思い出というのは、過酷で重圧の中にあり、全く思い出したくない類のものだ。
茹だるような暑さの夏休み、部員全員が4つのベースのそれぞれにグループ分けされ、ひたすら塁と塁の間でキャッチボールをする。一人でもボールを落としたら連帯責任で、ベースを一周ランニングするという罰がついている。キャッチボールが下手な私は(というか野球にまつわる全ての技能において得意なものなどなかったのだが)、キャッチボールの終盤に配置され、他のほとんどの部員が投げ終わった後に回ってくる役だった。紅白歌合戦のけん玉チャレンジを想像してもらうと分かりやすいかもしれない。とても重いバトンが、最後の最後に回ってくる。それまでの部員の汗の結晶のようなボールが、私と同じようにキャッチボールが上手くなく終盤に回された友人から投げられる。緊張と、重圧から、ボールを落としてしまう。その瞬間、「ドンマイドンマイ!」とキャプテンが叫ぶのを合図に、ベースを一周ランニングする。
私はある夏のある日、5回ほど連続でボールを落としてしまった。落とせば落とすほど、プレッシャーは強くなり、疲れも溜まっていく。他の部員は、恐らく内心「クソ喰らえ」と思いながら、「ドンマイ!」と笑顔で叫びながら、ベースを一周走っている…。
そんなことが今になっても忘れられない。ある1日のことで、些細な記憶なのにどうしても消えてくれない。未だに定期的にその夢を見る。主に、制作で追い込まれている時や、バンドでの予定が詰まり切っている時だ。
目が覚めると、私は東京のマンションの一室にいて、ほっと胸を撫で下ろす。起きてからも「ドンマイ!」という声が、部屋に残響している。
これを読んでいる皆さんは、バンドマンがよく見る夢というのをご存知だろうか?メンバーは勿論、バンドをやっている友人、誰に話しても見た事があるという夢だ。
楽屋にいて、ステージの時間が迫っているのに、今日演奏する曲がまだできてないという夢、これを本当に沢山見る。
夢の中の私は、とにかく焦っていて、絶対無茶なはずなのに、楽屋で曲を作り続けている。ライブの時間が刻一刻と迫る中、そんな限界状態の楽屋の中に、様々な友達が入ってきて茶々を入れてくる。「頼むから、今は曲を作らせてくれ!」何度もそう言って、罪なき友達を追い返す。弾こうとしたギターの弦が全て切れる。歌詞をメモしていたはずのiPhoneの充電が0%になる。そうした、本来ならあり得ない困難が次々と襲いかかる…。
目が覚めると、私は東京のマンションの一室にいて、ほっと胸を撫で下ろす。そんなことなら、違う曲を演奏すれば良かったんじゃないか? いつも目が覚めてから気づくのだが、そんなことは夢の中の私の選択肢の中にはない。
バンドの初ライブの時を思い返すと、本当にこの夢のようなことがあったのだ。曲が全くない状態で、ライブだけが決まっている。大阪北堀江のライブハウスの楽屋で、ライブの直前まで歌詞を書いていたことを覚えている。
私の夢を振り返ると、やはり何かしらの重圧が形を変えて現れることが多いのかもしれない。映画のロボットとは違い、起きてから夢で良かったと思える夢が多い。ロボットは、目が覚めた時やはり悲しみの中にいたのだろうか?それともそんな夢ですら見れて嬉しかったのだろうか?そんなこともセリフがない映画の中では推測するしかできない。
そもそも『ロボット・ドリームズ』において、本当にロボットは夢を見ていたのか?という問いは、観客の想像力に託されている。全てがドッグの妄想であった、と片付けてもいい話だ。
監督のベルヘルは「ドッグとは私なんだ」ということをインタビューで語っている。彼もまた映画の舞台となっている80年代のニューヨークに住んでいて、孤独な若者の1人であったと。
そんなベルヘルを救ったのは、他者と、それに対する想像力だったんじゃないかと思う。誰も自分のことに関心がない大都会の中にいて、趣味の合う友人もおらず、ひとりぼっちだったドッグが、一体のロボットを通じて、生活を煌めかせる。そして、それがいなくなってしまった後でも、ロボットが自分の夢を観ているかもしれない。そしてまた再会できるかもしれない、との希望のもと日々を過ごす。そうして過ごす生活は、それまでとはまるで違った色彩に包まれていたんじゃないだろうか。それが期待であれ、悲しさであれ、他者について、あれやこれや想像することができる、その一点が当時のベルヘルの生活も煌めかせたんじゃなかろうか。
私にも、振り返ってみれば夢のような日々というのはある。地元の北九州、当時は賑わってた商店街のギターショップで初めてのギターを買ったこと。大学の授業をサボり、学校の隅のスタジオでひっそりとバンドを始めたこと。上京して直ぐに住んだ郊外都市、東京に友達はおらず、どうしようもなく毎日が不安で、家の近くの駐車場から大学の友達に電話をかけたこと。その全てが今ここになく、今ここにいない人々にまつわる記憶でもある。ベルヘルにとっての80年代のニューヨークが今そこにないように、私にとってそうした場所も今ここにない。
ただ、あの夏のキャッチボールがなければ。あの大阪での切羽詰まったライブがなければ。沢山の出会いが私を今ここに辿り着かせ、そのどれが一つでも欠けていたら今ここにいない。
そうして考えていくと、あれが妄想だったのか、ロボットとは何だったのか、そうしたことは二の次で、もっと大事なものをドッグは獲得できたんじゃないかと思う。夢から醒めても日常は続く。目が覚めてから、夢で良かったと安心したり、現実なら良かったと寂しくなったりする。
それでもふと思い出すあの頃がある。生活は続くし、人生は長い。「September」の冒頭が胸を締め付ける。
「Do you remember
The 21st night of September?」
(あの9月21日の夜のことを覚えてる?)
(Story)
大都会ニューヨーク。ひとりぼっちのドッグは、孤独感に押しつぶされそうになっていた。
そんな物憂げな夜、ドッグはふと目にしたテレビCM に心を動かされる。
数日後、ドッグの元に届けられた大きな箱――それは友達ロボットだった。
セントラルパーク、エンパイアステートビル、クイーンズボロ橋……
ニューヨークの名所を巡りながら、深い友情を育んでいくドッグとロボット。
ふたりの世界はリズミカルに色づき、輝きを増していく。
しかし、夏の終わり、海水浴を楽しんだ帰りにロボットが錆びて動けなくなり、
ビーチも翌夏まで閉鎖されてしまう。
離れ離れになったドッグとロボットは、再会を心待ちにしながら、それぞれの時を過ごす。
やがてまた巡りくる夏。ふたりを待ち受ける結末とは――。
監督・脚本:パブロ・ベルヘル 原作:サラ・バロン アニメーション監督:ブノワ・フルーモン
編集:フェルナンド・フランコ アートディレクター:ホセ・ルイス・アグレダ
キャラクターデザイン:ダニエル・フェルナンデス 音楽:アルフォンソ・デ・ヴィラロンガ
2023年|スペイン・フランス|102分|カラー|アメリカンビスタ|5.1ch|原題:ROBOT DREAMS
字幕翻訳:長岡理世|配給:クロックワークス
公式HP:https://klockworx-v.com/robotdreams/
公式X:@robotdreamsjp
(c) 2023 Arcadia Motion Pictures S.L., Lokiz Films A.I.E., Noodles Production SARL, Les Films du Worso SARL
Instagram:@buubuu_ppt
X:@perrrrbuwa
web:https://panoramapanamatown.jp/
:NEW ALBUM:
Panorama Panama Town / SHINSHIGAI
1/22 RELEASE!!💿
:Tour:
Panorama Panama Town「SHINSHIGAI」Release Tour 2025🎫